くうねるところ

ブログとは、そもそも読まない、か、読み流すものである(と俺は思っています。)

途中でやめること。ecstasy。選挙。DVD教材。

一月二日である。

 

途中でやめることはいいことである。

というわけで、ここしばらく再開していた、ブログというか、日記というかをやめる。

 

途中でやめることはいいことである。

自由な精神の発露だ。素晴らしい。絶頂。エクスタシー。

最近になってわかりましたよ。 LOU REEDのecstasyが。そういう歌があるのです。

 

子供の頃は、地味で、つまんねえ歌だなあ、と思っておりましたが、あれはいい歌です。アルバムジャケットの表情もいい。ecstasy、が人生の全てではないだろう。が、ecstasyは人生の一つの階梯だ。一つ飛ばしに先へ進む人もあるだろうが、立ち止まって、ひと踊りするのも面白い。何よりも、気持ちが良い。

 

えー、日記を書くことはよいことである。なんというか、気づかんうちに成長のたしになる、それが日記である。が、やはり、書きたい、書きたいとどうしようもない熱情で書くものである文章って。

社会的に訴えたいことは山のようにある。何しろ、この社会ではいまだに差別や戦争や殺人が絶えないのだ。そんな状況で、「このままの社会で満足であります」など、クソである。勝手に、「天国でなくても〜♪」とか歌っておれ、バカが、って話である。

なので、文章を書き、このような場に掲示することは、実は投票行為よりも重要である。というより、選挙投票とは、有権者一人一人が、それなりの政治的ビジョンを有していて初めて有効なのだ。もちろん、その政治的ビジョンとは、社会的なもの、つまり、みんなの幸せを考え尽くしたものでなければならない。というか、そう発想がなければ、「楽しく」選挙できないだろう。選挙は楽しむものである。本来。何故ならば、有効な選挙とは、その選挙によって、社会がどんどんどんどん、よくなっていくものだからだ。政治とは本来「楽しい」ものだ。なぜならば、「政治の目的は社会をよりよくすること」だからだ。そんな素晴らしい政治、楽しくない方がどうかしている。まあ、楽しくないが。

 

楽しい、って感情は大切だ。

いいものは、大抵楽しいのだ。素晴らしいものは、ほぼ、間違いなく楽しいのだ。

快楽殺人とか、ありえねえ。快楽親孝行とか、快楽親切しか、おれの人生にありえねえ。

 

選挙において、僕たちは、「何」を選ぶのか?

選挙は何も、「賢いひと」を選ぶ行為ではない。

「人々にとってよりよい選択を自動的に選択する機械みたいな人々」を選ぶことが、選挙の目的だ。

人民の中で賢い人を選び出して、その賢い人に国家を運営してもらおう、という発想が、社会主義というか、中国やソ連のそれなら、より多くの人々が幸せになる道を自動的に選択するような良心の塊みたいな人間に国家の舵取りを取らせるというのが、民主主義なんだろう。いや、違うか。書きながら、ちょっとずれちゃったなあ、と思う。

 

が、選挙って、賢い人を選ぶ機会ではないんだよ、ってことは確かだと思うんです。

だって、賢い人を選ぶだけなら、もっと別のやり方があるわけです。科挙とか。

まあ、科挙合格者が賢いかは別にして、まあ、試験内容を工夫すればいいだろう。

なぜ、民主主義において、選挙が行われるかっていうと、本当は、全国民出席の総会を開きたいところだが、物理的に無理だから、もっと人数絞った総会にましょうって発想である。となると代議士というか政治家ってものの役割がわかる。それは、機械である。独自の発想とかいらんのだ。簡単に言えば、投票してくれた人々の意見を代弁するだけの機械。それでいいはずなのだ。だって、そのために投票して送り出したんでしょう?

なんかこの話、どうでもようなってきた。

やはり、おれは政治にほとんど興味がないのだろう。

 

何はともあれ、えーっと、あなたはすばらしい。

素晴らしすぎる。

本当に素晴らしい。徳川家康よりも、豊臣秀吉よりも、ありとあらゆる歴史上の人物よりも素晴らしいし、もしかしたら、悟りを開いているかもしれない。

 

途中でやめることは素晴らしいことであるが、途中で再開することも素晴らしいことである。気が向いたら再開しようと思う。いや、再開というより、新しく勝手に始める感じであろう。

 

言い忘れたことがあるが、ヨガや太極拳などのDVD教材は大半がクソである。

クソDVD教材の見分け方は簡単である。モデルに演技させているDVDは100パーセントクソである。いや、100パーセントは言い過ぎだなあ。いいのもあるとは思う。

以下のように想像したら、わかる。

あなたが、ヨガなり太極拳なりバレエなりの超達人だったとする。もう、世界トップクラス、の。

そんなあなたの元へある日、DVD教材制作会社の人間がやってくる。

「あの〜私たちとDVD教材作りませんか?」と。

あなたは、「うん、いいよ」と答えたとする。

あなたは早速、DVD教材用にビデオの前で自ら演技しようとする。なぜならば、あなたはその道の達人であなたより、うまく演技できる人間はまあ、まずいないからだ。やっぱり、上手い人の演技の方が視聴者の学習効果は高かろう。

しかし、教材制作会社の人間は「いや、先生ご自身の演技ではなく、モデルを使いましょう。その方が、親しみやすいし、やせたモデル使えば、ダイエットマニアが、マッチョなモデル使えば、筋肉マニアが食いつきますから」って。

けど、良心的な人間なら、そんな提案乗らんはずなのである。だって、そんなそこらへんからつかまえてきたモデルに演技させるより、達人本人が演技した方が、上手いに決まっているからだ。

そして、上手い演技を提供した方が、DVD視聴者の成長に繋がるからだ。仮に、モデルを起用するにしても、達人本人の演技絶対に収録するはずだ。

つまり、達人本人が(ほとんど)出演していないDVDというのは、達人本人に、良心というか、教育的心構えが薄い。まあ、それはそれでいいんだけれど。けど、そういうDVDを選んでわざわざ学ばんでもよかろう、とも思う。

 

なんというか、書きながら、言いすぎた、と思う。一概に、そうとばかり言えないなあ、と思う。まあ、そりゃあ、そうだ。

そもそも購入者本人の役に立てばそれでいいのだDVDなんて。

 

ただ、謎なのである。

なんで、多くのDVD教材で、教える人本人ではなく、モデルを撮影するのかが。

へんじゃない?

そもそも、なんでそんなもの買うの?モデルのファンなのだろうか?