くうねるところ

ブログとは、そもそも読まない、か、読み流すものである(と俺は思っています。)

受験産業(学校教育幻想)に騙されないために

第一回(一月四日)

 

僕はこのブログを、真心で書いている。

真心で文章を書く、とはどういうことか?

それは、いっさいのしがらみを忘れ、好き勝手に書くってことだ。

たとえば、「おまんこ、おまんこ」なんて文章だって、書きたくなったら、書く。

僕は、以下、「受験産業(学校教育幻想)に騙されないために」ってテーマで幾記事かを連載しようと思う。

かつて、漫画家の江川達也さん(「東京大学物語」とか「日露戦争物語」とか。)が『東京大学に騙されるな』なんて本を出した。

学校教育は幻想である。クソ幻想だ。生成文法ノーム・チョムスキーもどっかで、「学校教育は、知識を教えるのではなく、振る舞い方を教えるのです。例えば、ハーヴァード大学は、政治エリートとしての振る舞い方を、MITは技術職エリートとしての振る舞い方を、生徒に叩き込むためにあるのです。」みたいなことを言っていた。うろ覚えであるのでやや表現が変わっているかもしれないが。学校教育など、そのてーどのものなのである。

学校教育とは、都合のいい人間を大量生産するための「幻想植え付け装置」にすぎんのである。でもって、その学校教育を取り巻く、利権屋ども、それが受験産業の正体だ。

家庭教師?笑わせるぜ。家庭教師は営業職だ。

家庭教師は親や子供たちに、「自分たち家庭教師抜きじゃ、到底成績が上がりません。成績が上がらなければ、つまんない学校にしか進学できませんよ」って幻想を植え付け、自分たち教師を売り込むのである。クソ、じゃないか。

塾だって、予備校だって、そうだろう?

子供達の立場に立って、学校を再考してみようよ。

学校の役割って何か?それは、「子供達がぶっとんだ進化を遂げるための補助具」程度のものである。進化、というと、一方向へのみ進化、と連想してしまうかもしれないが、どういった方向へ進化するかは、子供達が選択すればいいのではないか。

そして、補助具に過ぎないなら、学校なんて、あったって、なくったって、どっちでもいいのである。利用したい人々が利用すればいい。

親も学校も捨てたって、いい。

そして、親も学校も、人生のどこかで捨て去るものだ。

 

いつだったか、江川達也さんが、堀江貴文さんとの対談で

堀江「学校なんて無意味ですよ。つまんないっすよ」

江川「いや、堀江さん、学校にもいいところはあると思いますよ。自分以外の人間がいかにバカかが学べる」

といった発言をしていた(記憶がある。)。

おそらく、ここで江川さんが言っている自分以外の人間とは、教師も生徒も他の親も含めてだろう。

おそらく、この対談はYou Tubeを探せば見つかるだろう。