くうねるところ

ブログとは、そもそも読まない、か、読み流すものである(と俺は思っています。)

試験はめちゃくちゃに答えていい(模試などいらない)

試験問題には、まともに答えなくていいのである。

なぜか。

以下のように考えてみたらいい。

 

たとえば、東京大学入試のの数学の問題において、或る生徒が

「一切出題された問題に解答しなかった」

が、その代わりに

「解答用紙いっぱいに、世界的な数学の未解決問題の答えを書いていた」

としたら。

 

極めて、ありえなさそうな設定だが、もしありえたらどうだろうか?

 

その学生は、東京大学に合格なのか?不合格なのか?

数学以外の試験は全て無記入でゼロ点だったとする。

 

もし、あなたが試験管だったとしたらどうしますか?

もし、あなたが試験管で、それなりの数学の素養があって、彼の解答のすごさが、それなりに肌身で分かったとしたら、どうしますか?

ゼロ点にしますか?合格にしますか?

 

俺の考えは、「まともな試験管」なら合格扱いにするだろうし、

アイヒマンな試験管」なら不合格にするだろうというものだ。

 

試験には二種類あることを理解したらいい(実は、他にももう二、三種類あるがここでは触れない)

 

1)学習進度を調べるためのテスト。

2)合格者不合格者を選ぶための参考材料としてテスト。

 

そして、1)の場合でも、2)の場合でも、テストにはめちゃくちゃに答えていいのである。

 

1)の場合は、学習進度を測りたいのはテストを実施する側の都合である。彼らに協力するもよし、協力しないもよし。全ては子供の側にイニシアチブがある。

 

2)の場合も、めちゃくちゃでいい。要は、自分自身の能力をなんとなく伝えたらいいのである。それこそ、国語の試験なら、問題に一切解答せず、その時その場で感じたことを、ひたすら和歌にして書きしたためてもいい。創作系の大学入試なら受かるだろう。(和歌の質にもよるだろうが。)正岡子規、そんなふうにして東大予備門に受かったのだろう(俺の勝手な妄想。事実未確認)。

 

以上の主張をさらに発展させると、塾や予備校が実施している「模試」「全国共通模試」など不要である。

んなもの利用するな。バカ。

そんなものではかられるほど、ちんけな才能じゃないはずだ、あなたは。

あなたは、本当に素晴らしいのだ。

もし、塾や予備校や模試がなくなったらどうなるか、想像してみてほしい。塾講師や予備校講師や模試の製作者や添削者が、リストラされまくるのである。

ああ、なんとすばらしいことか!

受験産業の仕事が楽しくて楽しくてたまらないというなら、勝手に働き続ければいい。が、多くの受験産業従事者にとって、仕事はたかが金儲けの手段だろう。なら、そんな仕事社会的に意味はない。リストラ、万歳!無職、万歳!

 

不要な仕事は、潰れてしまった方がいいのではないだろうか?

そして、不要な仕事が、不要である所以は、需要がない、という点である。

ストライキとは、労働者や労働組合のみの専売特許ではない。購買者消費者だって、不買運動という名の労働争議は可能なのだ。

 

どんな大学でも合格確実な解答とは、

「試験問題を一切無視して、その大学の卒業論文考査で、ぶっちぎりの首席を獲得するような論文を、解答用紙いっぱいに書き綴ること」ではないだろうか?

そんな受験生があらわれたら、採点者は、合格認定せざるをえないのではないだろうか?もし、不合格にしてしまえば、その大学の首席卒業生クラスの受験生が不合格、というわけのわからない事態に陥るんだぜ?

 

もしかりに、

「文字制限200字」の問題なら、そんな条件ぶっちぎって、6000字書いちまえばいいのである。その6000字の記述がそれなりに筋道立っていて、説得力があるようなら、高得点間違いなしだろう。

 

なぜ、試験問題に己の思考を制限されねばならない?