くうねるところ

ブログとは、そもそも読まない、か、読み流すものである(と俺は思っています。)

補足的叫び

当初10記事くらいの構成にしようと思っていた本シリーズだが、端的に言って、飽きた。なので、以下、箇条書き、ダイジェストである。

 

・出口汪さんをはじめ「科学的受験勉強方法」とか、「科学的解答方法」とかを謳う受験参考書、サービスは数多ある。しかし、待ってくれ。科学的ということは、乗り越え可能ということでもある。

つまり、ニュートン物理学をアインシュタイン物理学が包摂してしまったように、出口汪の科学的現代文解答法を、あなたなりの科学的現代文解答法が乗り越えてしまっても、全然構わないのである。

「俺はすごいんだ」「俺についてこい」というニュアンスで「科学的」とうフレーズが使用されているが、そんなわけない。あなたのほうがすごい。すごいあなたが、完全に新しい、すばらしい何かを創出してしまったらいいのだ。

 

高卒認定を利用すれば、高校の学費が浮く。その浮いた学費をあなた(子供の)の勉強代に当てるって選択肢もあることを知ってほしい。本当に、高校へ進学することだけが、王道なのだろうか?

高校教育を高卒認定の受験で済ましてしまえば、高校三年間の学費がぐんと抑えられる。結果、「高校授業料無償化」をバカみたい叫ぶクソ政治家の呪縛から逃れられる(将来的に、高校大学の授業料が無性になることは望ましい。けれど、票集め目的で心にも思っていないことを主張する政治家。そして、その政治家を盲信(期待)するしかない子育て世代、という呪縛は解けるはずだ。)。貴様らにんなことされなくたって、子供達はどんどんどんどん賢くなる。

 

現代社会という科目は以下の点で不十分だ。

1)新興宗教についてほとんど触れていない。

2)多くの人々が抱えている社会的不満について触れていない。(多くの人々が、働きたくない、と思いながら働いている。これは明らかに、問題だ。)

3)食料自給率が、円ベース、カロリーベースでしか計られていない。円ベースで食料自給率を測ってしまうと、円を介在しない食料入手の方法が子供達の目から隠されてしまう。つまり、いわゆる自給自足の道。カロリーベースはばかばかしい。年々増加する肥満たちをどう説明する。あんなの、過剰食料自給だろう。

田舎には、未収穫の果物がそこらへんの自然になっているのが現状であり、希望だ。つまり、これら自然物をみんなが好き勝手に利用しはじめたら、日本の(本質的)食料自給率は上がる。ただ、その本質的食料自給率は、円やカロリーベースじゃ測れない。

 

・公民科の意味。

公民科を学ぶ目的は、公民になることだ。別に、受験で役立てるとか、じゃない。そんなの瑣末なことだ。公民とは何か、自分自身の頭脳を使って政治に参画できるやつらのことだ。そのためには何が必要か、「立法能力」だ。別に、法律文章を作成する能力などいらない。必要なのは、「こういうふうにしたら、社会はこんなふうになって、それでみんなが幸せになるかもね」と想像できること。考えられること。

ジョンレノンはイマジン。と歌った。けど、イマジンには、「想像してみよう」って意味の他に「冷静に考えてみようよ」って意味も込められている気がする。勝手な解釈だけれど。

冷静に考えてみよう。戦争のない社会って素敵だよね?

冷静に考えてみよう、戦争のない社会ってどんな社会?

 

・現代文の意味。

現代文を学ぶ目的は、自学自習能力を身に付けることだ。自学自習能力さえあれば、「先生に依存する」必要がなくなる。先生に依存するってどういうことか。

或る日先生が「おい、アングリマーラ。適当に千人殺してこい。それが新しい宿題だ」などと言われたら、「は、かしこまり」などと無思考に実践してしまうことだ。

先生は、どこかで捨てるものだ。

そして、そのためには何が必要か?

おそらく、

1)先生なしで、好き勝手に学べる能力(自学自習能力)

2)先生とか、生徒とか、そういう個人レベルを超えた、俯瞰的な思考能力。

3)友と恋人。

だろう。

あくまで、俺の直感だが。

 

・教養とは

よく、教養は人を自由にする、という。中世ヨーロッパにおいて、教養を収めなかった人間は半人前として扱われたそうだ。よく知らないけど。

けど、「教養は人を自由にする」というフレーズはよく聞くが、では、なぜ「教養が人を自由にする」のだろうか?

いくつか仮説が立てられるが、そのうち一つを紹介する。

それは、教養を身に付けること=自学自習能力を身に付けること。だからだ。

不自由な状態とはなんだろう。それは、他者に自身の行動を意識的無意識的直接的間接的を問わず、縛られることだ。

自由とは、好き勝手生きることだ。

つまり、いつまでたっても先生にしがみついて、「先生先生」、やっているのはクソだ。

先生を捨てられるようになるために、あるいは、先生というフレームを外して他者と平等に接せられるようになるために、教養は身に付けるんじゃないかな。

 

・学校が喧伝する就職率。

専門学校が特にひどいが、パンフレットにやたらめったら「我が校の就職率は90パーセント以上で」などとのたまっている。こいつらは、志が低い。或いは視野が狭い。

もし、福岡正信さんが学校を作ったら、きっとその学校の卒業生は、ほぼほぼ、就職なんかせんだろう。わざわざ就職戦でも、農民として勝手気ままに生きていけるからだ。

つまりこういう発送も可能なのだ。「我が校に入学したら、わざわざ会社員にならなくても生きていけますよ」そんな学校だってあっていいのだ。

 

・大学で身に付けるべき基礎教養とは

それは、

エスの隣人愛、

ゴータマの慈悲、

ガンディーの非暴力、

忌野清志郎のロックンロール、

福岡正信の昼寝、

じゃないだろうか。

 

・大学時代の過ごし方

大学の学習は、どれだけ本を入手できたかにかかっている。つまり、大学時代というのは、徹底的に本代にのみ金をかけたらいいのだろうなあ、と思っている。まあ、ちょっと極端な言い方かな。

H・D・ソローの『森の生活』福岡正信の『わら一本の革命』の二冊を読めば、節約のなんたるかがわかる。

一年間で、3000冊の本を流し読みできれば、大学四年間で一万冊の本と触れたことになる。

 

・その他諸々書こうかな、と思ったことはあるのだが、面倒なのでやめる。

面倒ってか、飽きた。

最後になりましたが、以上の文章は、いい加減に書きました。当然、他の考え方ありうるし、俺は、本ブログにおいて、一切の文責を負わない。