くうねるところ

ブログとは、そもそも読まない、か、読み流すものである(と俺は思っています。)

ここ最近の変化。本を訪ねて。小谷野敦「母子寮前」に触れて

この頃の変化

・やっぱり、日記を再開したくなったこと。

・フレーム問題についてうんぬん。人間にもフレーム問題があり、まあ、わかりやすい例だと、俗にスランプといわれるものがそれだろう。

・タイマーを使わなくなったこと。

・一日ほぼ一食になりつつあること。

・昨日体重をはかったら風呂上がりってのもあったのだが、46キロ(身長166センチ)でびっくりしたこと。

など。

 

現在一月七日。

 

先日、受験産業を罵倒(?)する文章をこのブログにおいて書き、予約投稿しておいたのだが、この手の罵倒文を書くと、後日「言いすぎたよなあ」という気分になる。僕は、自分で書くのもなんだが、(ほぼ)徹底した非暴力の人である。鰹節も使いたがらない人間である。蚊もほとんど殺さないし、(たま、うっかり、無意識に殺してしまうことがある)ゴキブリは100パーセントキャッチアンドリリースである。みんなゴキグリのことを怖がりすぎである。ゴキブリが人を殺した、なんて話、僕はこれまで聞いたことがない。あまりに一方的に、ゴキブリを殺しすぎである。こういうのを、人間の言葉で「虐殺」という。なんか話が逸れたが、何が言いたいのかといえば、「罪を憎んで人を憎まず」の精神の持ち主なのだ。俺は。受験産業は、正直、完全になくなるか、現在の千分の一くらいの規模に縮小したらいい、と思っている。

冷静に考えて欲しいのだ、

受験参考書一冊読むより、子供に読んで欲しい本、たくさんあるよね?

もちろん、何を読むかを子供達に強制したい訳じゃないし、強制しないほうがいい。強制しないでほしい。

「十四歳の哲学」読め、とかいわないで欲しい。十四歳からのだったっけ?哲学というのは、というか、あらゆる学問がそうだけれど、人それぞれ学び方があるのだ。この本から始めなくちゃならない、とか、この本が登竜門、とかないのです。まあ、オススメの本はあるだろうけれど。

 

冒頭にも書いたが、タイマーを使わなくなった。これまではガンガンにタイマーを使っていた。昼寝をする際も事前に20ふんタイマーをセットして横になっていた。とある、情報商材の影響である。が、時間概念に縛られるのが嫌になったのである。というか、時計そのものがなんか違うなー、と思うようになった。

20分きっかりに目を覚ます必要がどこにもない。アラーム音で目覚めるのは、want to awakeではない。(俺は、ちょくちょくwant to という言葉を用いるのだが、苫米地英人さんからの影響である。)そんな気がして来たのだ。

これまで、太極拳の練習にもタイマーを用いていたのだが、それもやめた。理由は、上記のほかに、もう一つ。「一定時間こなしたら、それでOKって気持ちが」なんか、いや。時間をこなす、というのは、感覚をないがしろにするような気がするのだ。立禅という練習方法があるのだが、いや、鍛錬方法といったほうがいいか?まあ、それはさておき、立禅においても、一定時間クリアーしたら、おっけーより、「あ、この感覚以前にない感覚、いい感じいい感じ」とその時々の納得、というか、手応えを経て、「今日の立禅は満足満足」と終わりたいのである。

おそらく、そういう心構えのほうが、成長も捗るのではないかしら、と。

成長も捗る、ってなんか違うか。成長も、、、促進される?

タイマーのよさは、囚人生活のよさ、みたいなものだろう。規律よく生活すれば、そこそこ健康にはなる。が、俺は、性格上、束縛感とでもいうのか、そういうの、ダメ。

誰だって、そうであろう。

 

そういえば、ブログの説明文を変えた。

本ブログは、一期一会のブログでよかろう、と思い始めたのだ。何年間も、追いかけてもらう必要はなく、たまたま出会ったその日に、適当に流し読みしてもらって、そして、忘れてもらえれば、と思う。様々な人間の意見に目を通すことで、人は、少しずつ利他的に成長していくのではないか、と思う。

 

そういえば、先日、とあるツイッター主に「オススメの本教えて」とお願いした(そこそこ丁寧な文章でお願いしました。)。彼とは一切面識がない。単に相互フォローしあっているだけの関係である。

で、教えてもらった。いやあ、嬉しかった。

この頃、というか、半年くらい前から、機会があるごとに、友人に人生で「面白かった本10冊おしえてくれ」と聞いて回って来たのだが、ふと、友人じゃなくてもいいよなあ、と思ったのだ。未知の人間に聞いてみると、さらに未知なる読書世界が開けるだろう、と。

俺が訊いた相手も、訊かれたことが嬉しかったようで、それがまた嬉しかった。また、かなり、丁寧に教えてもらえた。本好きの人は、自分の好きな本、大切にしている本を誰かに教えたいって気持ちが、あるのだろう。俺自身、あるし。

正直、薦められた本を読んでみて「うん?どこがいいんだ?」と思うことのほうが、多い。が、こういうところもよいのである。

「俺が面白さを感じない本を、でも、面白い、いい、感動した、などと感じる人が確かに存在するのだ」という実感が得られるから。こういう実感の積み重ねが、多様性の受容につながるのではないか、と思う。もちろん、本なんて読まない、っていう多様性だってあっていい。

オススメの本を教えてもらうと、自分の行動パターンが普段と一歩ずれるのも面白い。やはり、薦められた本を無意識のうちに探してしまうのだ。そして、買ったり買わなかったりする。読んだり読まなかったりする。

俺自身、真面目な人間ではない。薦められた本全てを読むなんてことは、稀である。基本的に、流し読みで読み、気に入ったものだけ、熟読する。それこそ、薦められた本を元に、相手の性格分析に熱中してしまうことさえある。却って、それが面白かったりする。今回のように未知な相手だと、どんなやつなんだろう?と想像が膨らむ。

同じ、「オススメの本10冊教えて」という質問に対しても、人それぞれ答え方が違う。

厳選に厳選して「5冊」のみ教えてくれる人もいれば、「異なる観点で、10冊かける二パターン=20冊」教えてくれる人もいる。

即答してくれる人もいれば、しばらくたって、忘れた頃に教えてくれる人もいる。

俺自身そのような質問を受けたらどのように答えるだろうか?まあ、気分次第だが、その場で、二、三冊即答して、一旦帰宅後、自宅の本棚やこれまでの記憶を頼りに、20冊くらいピックアップ、その後、バラエティ重視で、10冊に絞り込むだろうか。

そういえば、昨日、大学時代、論理学の講師が薦めていた本をアマゾンで注文した。学生の頃は、ラッセルなんて興味ないぜ、と思っていたのだが、まあ、その先生、いい人なのである。いい人が勧める本は一通り読んどこうかなあ、読まないにしろ、手元おいとこうかなあ、と思ったのである。バートランド・ラッセルの『哲学入門』と『原子論的〜(タイトル覚えていない)』である。

 

昨日、小谷野敦さんの『母子寮前』という小説を流し読みした。俺は、小説は身体的に染み込ませたいものだけ、音読するようにしているのだが、『母子寮前』音読するには気が引けたが、けど、そのまま読まないで済ませられなかった。

読後の感想は、「そうだね」今持って、この小説に対する感想は「そうだね」の一言だったりする。もちろん、その「そうだね」には、色々な意味が込められている。

あらすじを書くのは、なんだか嫌なので、やや印象的な説明になるのだが、この小説は、小谷野さんが、亡くなられた小谷野さんのお母さんの代わりに、世間というか、小谷野さんのお母さんにやさしくなかった社会に向かって、怒っている小説なのかな、と思う。怒る、という表現はややニュアンスが違う。かといって、糾弾ってのとも違う。やりきれない、って言葉もやや違う。

もちろん、以上の説明は一面的な捉え方だし、なにより、俺の勝手な印象です。

小谷野さんの文章は、正直なところ、あまり好きではないのだが、ここでいう好きとは、真似したいか、真似したくないか、こんな文章書いてみたいか書いてみたくないか、という意味での好き、嫌い、なのだが、小谷野さんの文章は、好きではないが、小谷野さんの文章を読むと、小谷野さんっていい人だなあ、と思えてしまうから不思議だ。いや、不思議ではないか。そういうことはよくある。

文章を読む際、俺の中に、鑑賞(ちょっと違うな、けど暫定的にこの言葉を用いる)する自分と、学習者の自分(要は、この文章を書きたい)、創作者の自分(この文章にインスパイアされて、あるいは、こんな文章なんかよりもっとすげえ、未知の文章を書きたい)自分がいるなあ、感じる。で、「母子寮前」読書時、鑑賞者(って言い方変なんだけれど、傍観者、ってののほうがいいかな)としての自分が刺激された。普段、あまり活発に表に出てこない自分だ。鑑賞という表現を用いたが、別に、賞味していたわけではない。

俺自身、小説とは、面白くなくっちゃならん、と思っている。面白くない小説は、どんな真面目な社会小説でも読みたくはない。そして、「母子寮前」は面白い小説ではなかった。面白さを目指した小説でもない。

ここまで書いてなんだけれど、別に、なんというか、その、これは書評でも、この本オススメだよ、って文章でもない。なんとなく、書きたくて書いている。もどかしいのだと思う。

身もふたもない、言い方になる。そして、今更な話でもあるけれど、そんなくだらない夫とさっさと離婚してしまえばよかったのになあ、と感じた。これは感想ではなく、そうだったらよかったのに、という願望に過ぎない。

相思相愛が大切なんだ、と思う。で、相思相愛とは、お互いがお互いのことを思いやれる関係ということ。つまり、互いが互いに利己性の殻を打ち破った状態のこと。利己的な感情で結婚なんかしないほうがいいよ、と思う。

「母子寮前」を読んでいて、もどかしいというか、辛いのは、いや、やっぱ、いいや。

人の小説をネタみたいに使って、持論を展開するのは、なんか違う。

 

 

・話は変わる。

親子関係というのは、実は、賭けだ。

本当に、賭けだ。

ギャンブルに過ぎない。

いい親、というか優しい親の元に生まれてくるか、

利己的な親の元に生まれてくるかは、赤ん坊には、どうすることもできない。

だから、親子関係というのは、その初期配置は、完全にギャンブルだ。

でも、親子関係以外の関係は、ギャンブルじゃない、いくらでも選択可能だし、そうであってほしい。じゃないや、そう、なのである。そうなのだ。