くうねるところ

ブログとは、そもそも読まない、か、読み流すものである(と俺は思っています。)

日記 書きたい放題

私は、性的でない女が嫌いなのだろう、と思う。性的でない女と共に過ごす理由が私にはないのだ。そして、私以外のほとんどすべての男たちにとってもそうなのだ。親子関係など、なくなってしまえばいい。

 

話は変わるが、スポーツに感動するのは、スポーツ以外に、感動できるものがないからかもしれない。カープに感動する広島市民は、もしかしたら、カープ以外に、楽しみがないのかもしれない。

 

山登りの精を出す中高年は、体の不調などで、山登りができなくなると、鬱々とする場合がある。前に、テレビでやっていた。が、それもそれで阿呆である。自然と触れ合う方法が、山登りしかないと思い込んでいるのだろう。本当に、そうだろうか?確かに、高い山には、雷鳥高山植物など巷ではお目にかかれない動植物に出くわすことだってある。けど、平坦な地上の上にも植物は実るし、実は、視界の広さもそんなには変わらない。実は、山頂からの見晴らしと、関東平野のような平坦な何もない場所の見晴らしは、そんなに変わらない。かもしれなかったり。

 

先日河川敷を歩いていて鹿に出会った。こんなところで何してるんだ、と思った。その際ふっと思ったこと。俺、勘違いしていたなあ。ただの傍観者として自然に混じってもいいのだなあ、と鹿と見つめ会いながら思った。俺は、「猟師じゃなきゃ山に立ち入っちゃいけない。釣り人じゃなきゃ、釣り場に出向いてはいけない」などという、ようわからん思い込みをしていたのである。山と親しむ、とは、猟師の特権で、海と親しむというのも、釣り人の特権だと思っていたのだ。で、俺は、あまり、殺生が好きじゃないから、猟師にも漁師ににも成りたくなくって、山と海両方から遠ざかっていた。避けていたと言ってもいい。が、そうじゃなかった。別に、なんでもよかった。山菜取りを目的とせず、山菜を眺めに山へ行ってもよいし、狩のためでなく、山で鹿を探してもよかった。釣りのためでなく、釣り場で魚を眺めてよかった。自然と戯れるのに、特別の目的なんてなくてよかった。特別な目的があってもよかった。どっちでもよかった。

 

一軒家はこだわりに過ぎない。まあ、何事もこだわりに過ぎない。周りの人と同じことをやらかしているときは、ただ、常識に流されているだけかもしれないよ。多くの人々が、家族計画と家の購入をワンセットで考える。たとえば、将来子供を二人ほしいから、子供部屋も含め、4LDKのマンションを購入しよう、とか。けど、こういう発想もできる。子供ができるまでは、小さな平家に夫婦で暮らし、子供ができたら、もう一軒小さな平家を買う。できなかったら、買わない。みたいな。家族だからと行って、一つ屋根の下に暮らさなくちゃならないわけじゃないし、一つ屋根の下に暮らしてもい。二世帯住宅、三世帯住宅というけれど、あるいは、発想をちょっと買えて、三つの世帯で、三軒の家を共有するなんてのも、多分面白い。三軒の家を祖父母、父母、子供の三世帯で共有できれば、たとえば、祖父母が亡くなった際は、余分になった家を単体で売り払うことができるし、子供達が成熟してきたら、期間限定で、自活体験をするなんてこともできる。夫婦仲がぴりぴりしてきたら、お試し別居なんてこともできるだろう。

今、日本の人口は縮小傾向にある。これが何を意味するかというと、どんどんどんどん、空き家ができるってことだ。以上に述べた、一つの家族が複数の小さな家を所有するって生活スタイルも、今後どんどんやりやすくなるはずだ。

土地をもっとゆったり利用したほうが楽しい。

 

天才肌、という言葉が、嫌いである。嫌い、というか、嫌いまでじゃないんだけど、面倒臭い言い方だなあ、と思う。褒めているのか、褒めていないのか。

「天才」と思ったなら、「天才だ!」と素直に言えばいいのだ。天才肌、などと、回りくどいことは言わなくていい。天才肌ってのようは、天才っぽいね、って意味だろう。大工さんに向かって、大工っぽいね、と言っても、何が言いたいんだこいつ?となるだろう。天才に向かって天才っぽいね、と言っても、同様だろう。天才に対しては、天才だね、と言うか、あるいは何も言わないかのどちらかでいい。大工に向かって、大工だね、というのは、まあ、言わずもがななように、天才に対してだって、この人は天才だ、っていうのは言わずものがなだ。けど、天才に向かって、天才っぽいねというのは、喧嘩を売っている。

ふっと、血液型性格占いが頭によぎったのである。僕は、あれが、まるっきり当たらない。よく、人から「A型っぽいね」だの「AB型っぽいね」だの、「O型って感じだ」だの、「B型?」だのと言われる。まあ、何型であるかは、ここでは述べない。どうでもいいからだ。保険証に書いておけば十分。血液型など、輸血の際のみ気にすればいい。

 

占いが、気にくわない。

占い結果が、いつも気にくわない。

占い師というのは、飴と鞭を用いる権力者である。

つまり、一方で「地獄に落ちるわよ」と脅し、同時に「あなたにはなんたからかんたらな運命の人が」などと人が喜びそうなことをのたまう。

が、彼らはバカである。

彼らの脅しは、脅しになっていない。彼らのくすぐりはくすぐりになっていない。

地獄に落ちることのどこが脅しなのだ?この世だって、十分に地獄である。そして、この地獄な世界だって、天国に変える方法が確実にあるのである。ならば、たとえ、ほんまのの地獄に落ちたって、閻魔大王に直談判して、「地獄天国化計画」を推し進めたらいいだけである。

一方、「運命の赤い糸が」だの「東南方角から幸運がやってくるだの」そんなこと知るか、である。「俺は、その程度のことを幸運だとか、幸せだとか、思わない」

占い師というのは、一言で言えば「想像力の貧困なクズである」

彼らの脅し程度、全然不幸じゃないし、彼らののたまう幸運程度、全然幸福じゃない。

もっともっと、不幸はあるし、もっともっと幸福はある。

俺は、三歳の頃「この子は将来性犯罪者として一生を監獄で過ごすか、歴史に名を残す偉人になるかどちらかだ」ととある猿に占われたが、まったくもって、それがどうしたと言うのだ。

仮に、性犯罪者として一生を監獄で過ごしたとしても、同時に、多数の人々を幸福にし、また自分自身幸福に生きることは十分に可能だ。

そして、俺は、歴史に名を残す偉人どもが(基本的に)大っ嫌いだ。ナポレオン?織田信長?ただの大量殺戮者じゃねえか。歴史上の人物とは、大半がクソである。トゥキデスの『歴史』を読んでみるといい。蘇我馬子もクソだし、中大兄皇子もクソだ。煬帝とか、死んじまえって感じだ。死んでるけど。唯一例外的にこいつすげえと思えるのは、一休宗純くらいだろうか。

猿占い師は「この子は歴史上の人物になるうんぬんで」で俺の歓心を惹こうと思ったのだろうが、俺を支配しようと思ったのだろうが、そうは問屋がおろさないのである。何故ならば、俺は歴史上の人物になどなりたくない。

これは別に悪口ではないのだが、安倍晋三さんは、おそらく、百年後くらいまでの歴史教科書には記載されるだろう。が、どれくらいの人間が安倍晋三さんのよう生きたいと思うのだろうか。自分のやりたいように生きて、歴史とかどうでもええわ、というのが、本音だろう。

歴史上の人物とは、その程度のものだ。歴史上の人物とは、例えば、トランプ大統領とか、安倍晋三さんとか、まあ、何かを代表する人々のことだ。いわば記号に過ぎない。電圧という量に何かしらか単位が欲しいからアンペアって名付けるみたいなものだ。つまらん。

前世が侍だからといってなんなのだ。侍など言い換えれば、ただの殺人者だ。あなたの前世は野ネズミです、と言われた方が俺は嬉しい。いや、どうでもいいんだけど。