くうねるところ

ブログとは、そもそも読まない、か、読み流すものである(と俺は思っています。)

一月八日の日記。怒る、叱る、よりも、キレるへ。

一月八日。

昨日、METAL MACHINE MUSICというCDが届く。LOU REED最晩年の作品。一曲聞く。これまで聞いてきたLOU REEDの曲がおもちゃに思えてきた。よくわからない衝撃があった。衝撃?一切感情的にならない感動があるのか、と驚く。

 

心が苛立っている。だが、感情を表面的に分析したくない。表面的な解決に臨みたくない。本当は何もかもが、どうでもいいはずなのだ。

 

この世界から、一切の非難、愚痴、否定的な言葉を無くしたい。みんながみんな、好きなことだけ好きなだけやりまくって、楽しく朗らかに暮らしたい。

過去の失敗をくよくよ悩んだり、過去の嫌な記憶をくよくよ悩むことがあるかもしれない。けれど、あなたは、今のあなたであり、実は、過去のあなたとは別人なのだ。過去の失敗を今のあなたが繰り返すかといえば、そんなわけないし、過去の嫌なことは、ちょっと大げさかもしれないけれど、今の自分とは別人の赤の他人が被った不幸なのかもしれない。赤の他人だって同じ人間で、みんなで幸せになりたいとしても。

 

いろんなことがどうでもいい。大切なものなどなにもない。

 

一人になりたい。一人でいたい。誰とも関わり合いたくない。

他人がすごく嫌である。言葉とは、何か。それは他者を支配するための道具である。そんなけったいなものをみんなが振り回している。いやである。俺に話しかけるな。独り言も言うな。TVがきらいだ。ラジオも嫌いだ。

西野カナがすごくきらいだ。別に彼女がなにをしたというのではないが、彼女の歌を聴くと、頭が痛くなる。殺されると思う。殺されると思う。

西野カナの曲は、「私頑張ってます、ほめてほめて」って歌な気がする。それを世間では「女心」を歌っているなどと称するのかもしれない。けど、そんな女心、ってなんだ。全然セクシーじゃない。「月曜日から金曜日まで働いて疲れました。私頑張ったね」なんて内容の歌にどんな救いがあるのか。救いは、芸術作品の中に埋め込まれている。救いとは記録された感情だ。救いとは、そういう感情のことだ。救いとは真心の感情のことだ。交換条件で、私を褒めて、ってのは、ある条件のもと私の支配下に入りなさいというのと同じだ。

 

と言う文章を書いたら、別に西野カナさんのことが嫌いではなくなった。西野カナさんのことが嫌いだ、という感情が、文章を書くことによって、消滅してしまったようだ。どうでもよくなった。

 

よそ見をすることはいいことである。授業中よそ見をすることはいいことである。

よそ見とは何か?よそ見の格好いい言い方を教えてあげよう

「物事を多角的に見ている」である。

よそ見=「物事を多角的に見ている」

(付記、運転中のよそ見は危ないからやめよう。)

話を聞いていなかった=「自分の頭で考えている」

この世の中には、怒る理由なんてない。このブログにおいて、俺はこれまで散々怒りを発散させてきたわけだけれど(ついさっきも西野カナさんに怒っていたわけだけれども)実は、この世の中には、怒る理由など何もない。

子供が車道を飛び出した→子供を怒る。

そんな必要はない。

子供が車道に飛び出した場合、

もし、その結果、車に引かれそうになったなら、子供を助けたらいい。

もし、その結果、車に引かれなかったら、よかったね、と思えばいい。

 

もし、その結果、車に引かれたなら、悲しめばいい。

怒る必要はない。

少なくとも、怒ると同時に、よかったね、と言う感情や悲しみの感情も同時に抱いてもいいのではないだろうか。

子供に、車道へ飛び出したことを怒ると同時に、それと同時に、車道に飛び出しても事故に至らなかったことを喜んでもいいのではないだろうか。

喜びながら怒ったなら、ただ怒る、というのとは少し違った状態へ至らないだろうか?怒る側だって、楽しいだろう。だって喜ばしいのだから。怒られる側だって。

結局、怒る、というのは、なんというか、その、自分のためって感じがするのだ。怒っている人って、側から見ていると、「ああ、自分のために怒っているな」と思うのだ。

叱る、って行為は、「目の前の誰かのために叱っているな」って感じがする。が、同時に「目の前の誰かを感情の爆発によって支配する行為、それが叱る」なのだな、とも思う。

キレるって行為は、「なんだかよくわからない目的のために、当人の利害損得を抜きにして、大暴れしている」って感じがして、怒る、や叱る、に比べて、好感が持てる。

例えば、「なんで、自分たちの食べ物くらい自分たちで調達できんのやあ」とキレたのが「ガンディーの塩の行進」じゃないのだろうか?あの時、ガンディーは怒っていたわけでも叱っていたわけでもなくって、キレていたと思うのだ。

 

怒る・叱る・キレるについて。

まず、類似点。

怒る・叱る・キレるも、感情の爆発である、感情の爆発的な発露である、って点で似ている。怒っている人も、叱っている人も、キレているひとも、得てして冷静じゃない。冷静じゃないってどう言うことかって言うと、感情的だってことだ。声が大きくなったり、普段じゃ考えられない行動に出たり、ありえない影響力を発揮したりする。

 

しかし、当然ながら、怒る、と叱る、とキレる、には相違点がある。

それは、何に対して、感情を爆発させるか、の違いである。つまり、感情を向ける対象がそれぞれ違うのである。

怒るは、実は、自分自身に対して感情を爆発させている。例えば、子供に対して怒っている親の多くは、「ああ、こんなクソったれな子供を持ちやがって私は」と自分自身に向かって怒っている気がする。別の例だとわかりやすいかもしれない。例えば、タンスの角に小指をぶつけて、「クソ野郎」と怒る場合。その場合、果たして、タンスに向かって怒っているのだろうか?本当は、ただ、自分自身に対して、自分自身の痛みに対して、「勝手に痛み感じてんじゃねえよ私」と怒っているのではないだろうか?つまり、一人称的な感情の爆発が怒り、だと言えるのではないか。

一方、叱るは、あなた、を対象とする。つまり、二人称に向かって感情を爆発させるのが叱る、だ。三人称に向かって、つまり、彼、彼ら、それ、に向かって叱っても仕方がないだろう。そして、「あなた」に向かって感情を爆発させるのは、感情を爆発させることによって「あなた」を思い通りに動かしたいからだ。親が子供を叱るのは、親が子供を思い通りに動かしたいからだ。

以上の流れから予想されるだろうが、キレるは、三人称的対象に向かって、発露される感情である。忌野清志郎のGODという曲を聞けば、わかる。「ママもいやめて」でもいい。そして、三人称的対象って行った何か?というと、「直接私と関係のないもの」である。もっといえば、「直接私に利害関係がないもの」である。もっといえば、キレるとは「自分自身の損得計算を無視して感情を爆発させる行為」である。だからこそ、僕は、キレるって行為を称揚したい。

通り魔はキレているんじゃない。怒っている、あるいは、叱っているだけだ。

そして、キレることは、じつは、いいことである場合が多い。もちろん、キレた結果、チェ・ゲバラのように死んでしまう場合もある。どう、キレるかには慎重になった方がいい、かもしれない。

僕は、怒る人や叱る人が、大っ嫌いだ。

死んじまえ、と思う。90年後にくらいに、天寿を全うして死んじまえ。白寿くらいで死んじまえ、と思う。あと、そういうクソみたいな人間は、選挙に行くな、とも思う。

僕は、キレてキレてキレまくりたい。

 

世間的に、「それはいけない」ってされていることの大半が、実は、「それはいけなくない」と思うよ。