くうねるところ

ブログとは、そもそも読まない、か、読み流すものである(と俺は思っています。)

Q and A、と、喧嘩の叩き売り。

僕はいくつかのことについて、(僕なりの)答えを知っている。

答えは、実は、いつだって、簡単だ。簡単な答えを、みんな内心に閉じ込めているに過ぎないのだ。

 

Q.世界を平和にする方法を教えてください。

A.世界を平和にする方法はいたってシンプルだ。

世界人口の約半数が、

ガンディーやテレサのような聡明な人間になればいい。

 

想像してほしい。人類の約半数がガンディーかテレサだったら、まず、絶対に、戦争なんか起こりうるはずがない。逆に言えば、なぜ、いまだに戦争が絶えないのか、と言えば、人類の約半数がガンディーないしテレサ以上の水準へ到達していないからだ。

ガンディーやテレサはあくまでわかりやすさを優先した例であり、別に、聡明な人であれば、別に、誰でもいい。

ホーキングでも、アインシュタインでもいいだろう。

 

Q.殺人や強姦など凶悪な犯罪を止める方法はありますか?

A.すべての善男善女が、せめて、合気道十段相当の武術の達人になればいい。

いったい、どこの誰が、合気道十段に襲えるだろう。

仮に、刃物を振り回す凶漢が現れたとしても、その場に、合気道十段相当の達人が、五、六人いれば、誰も死なないで済むだろう。

合気道というのはあくまで一つの例であり、要は、狂気を振り回す大男を軽く無力化できる実力があれば、それでいい。

 

こう言う話をすると、「頭の悪い人」は、僕のことを小馬鹿にするか、かわいそうな人とみなすか、端っから無視してかかるかする。

だが、反対も言える。僕の話を夢物語だとみなす人間が、「頭の悪い人」ではないか。

自分のことしか、考えていない人じゃないか。

こんな簡単なこと、誰だって理解できることなんだ。ガンディーとその仲間たちは、ほんの少数で、インド独立までこぎつけた。なら、ガンディーみたいな人が、雲霞のごとく現れたら、世界はあっという間に平和になるに決まっているじゃないか。ガンディー一人じゃ、少な過ぎた。それだけの話なのだ。

 

以下、常識に喧嘩を売る。

 

・田舎だと車がないと生活できない。

そんなわけはない。歩けばいい。スーパーマーケットへ徒歩で片道三十分かかったとしたら、とてもいい運動になる。普段車をビュンビュン使って、週末ジムに通うなんて阿呆じゃないか。

そもそも、車がなかった時代の人たちはどうなると言うのだ。

 

・いつだったか、仕事の若者が、食べ物が買う金がないため、トイレットペーパーを食べているというニュースを見た。

このニュースは、金がないことの悲劇を伝えるニュースではない。金がなかったとしたって、トイレットペーパーよりましな食い物くらいいくらでもあったはずだ。「金がない、トイレットペーパーを調味料つけて食べよう」そういう発想に固定化されていたことが悲劇というか、喜劇なのだ。トイレットペーパー食べるより、バッタでも捕まえて食べた方が栄養になる。

 

・授業中ノートをきちんと取らないといけない。ノートが綺麗にかけない子は勉強ができない。

ヘレン・ケラーがどうやってノートを取れると言うのだ?健常者のようにノートの取れなかった、ヘレン・ケラーは勉強ができなかったのか?勉強ができなかったのに博士号を取ったのか?

 

・(学校のテストなどで)答えがわからなくても、何か書きましょう。選択問題は必ず選びましょう、と教える場合がある。

なんで、答えがわらかない場合でも答えることを強要するのか?それは、つまり、子供達に「成績を上げるためなら嘘をついてもいい」と教えているのではないか。なぜ、「俺はそんな卑怯な真似はするつもりはない」という男気ある生徒(つーか昔の俺だが)を受容する程度の度量さえ学校教師にはなかったのだ?

嘘なんて、好きなだけついていい。けど、好きな時だけ好きなだけ嘘をつけばいい。

 

・毎食後、歯を磨きましょう。

俺は、朝しか歯を磨かないが、虫歯になっていない。

 

・結婚したら結婚式を上げるもの。

一回の結婚式で、どれだけの食べ残しが出ると思っているのだ?人間様の虚栄心のためだけに、豚や鳥や牛や魚の命を無意味に消耗していいと思っているのか?思っているなら別にいい。勝手にしろ。それも一つの価値観だ。でも、俺はそんな人間嫌いである。

 

・葬式は死者を慰めるもの

(以下、個人的な考え)そんなわけない。葬式とは、死んじまった人間を徹底的に殺すために開くのだ。実際には、死んじまったが、どうにも「あいつ、まだ生きている気がするなあ」ってモヤモヤした気持ちを吹っ切るために「よし、あいつの死に顔みて清々するかあ」と立ち寄るのが葬式である。

逆に、死んでしまったことにしたくない場合は、葬式など行かない。

逆に、生きているうちから死んでいるも同然だったやつの葬式にも行かない。だから、赤の他人(知らない他者)の葬式へはわざわざ出向かないのだ。だって、知らない人間はまあ、ある意味生きていないようなものだからだ。

 

・日常生活に時計は必要。

そうとも言い切れない。時計があろうがなかろうが、俺たちの寿命に大差は生まれないのだ。ミヒャエル・エンデがモモを発表して何年になる。いつまで、時間に惑わされているんだ。時計など科学と、将棋の持ち時間を測るためだけに用いればいい。

 

・一日一歩、三日で三歩、三歩進んで二歩下がる〜

俺は、この歌が嫌いである。そんなわけわかんねえことするくらいなら、二日に一歩ずつ、着実に歩けばいいじゃないか。そもそも、そんな発想していると、何かの拍子に、五千歩下がるはめに陥ったら、途端に無気力になりかねないぞ。「はあ、一年かけて約七十歩進んだぜえ」とご満悦のところを、例えば、親族が死んだりして、精神的に千歩くらい下がることになったらどうするのか?こういう「一日一歩」とかいうのはポジティブシンキングとはいわない、ただの阿呆と言うのだ。

一番いいのは、好きな時に好きな場所へ、テレポーテーションすることだ。

 

・都合のいい女になりたくない

俺は、都合の悪い人間と一緒にいたくはない。だって、都合が悪いのだ。待ち合わせも都合が悪くなって現れない。遊びに誘っても、毎回断る。金をせびってくる。そういう人間とは、面白半分で一二度あったらもう嫌だ。

たまたま、互いが互いにとって、都合のいい人間であることが、相性がいいってことなんじゃないのかな、と思う。

 

・主婦は毎日が仕事。休みなんかない。

んなわけあるか。一日くらい、掃除をしなくても、洗濯をしなくても、絶食しても、死なない。家族そろって断食でもすりゃいいのだ。週に一度くらい。

ただし、授乳期の赤ちゃんとか、成長期の終わる前の子供とか、そういう場合は断食は危険だと思います。たぶん。

 

・そんなことして恥ずかしくないの?

恥ずかしくないからやっているのだ。うるせえ。

仮に、恥ずかしかったとして、なんだって言うのだ?恥ずかしい、と言う感情は、以外と悦楽につながる感情なのである。例えば、恋人の前で裸になるのは恥ずかしい。恋人と初めて手を繋ぐのは、すっげえ恥ずかしい。けど、その恥ずかしさが楽しかったりするのだ。他人を指差し「そんなことして恥ずかしいでしょ」とのたまうのは、精神がおばさん化しているのだ。恥ずかしさって、いいものなんだよ。

 

・運動会

運動会は危険だ、と個人的に思う。運動会の特徴をいくつか上げる。

1)大きな音がなりっぱなし。

2)分刻みのスケジュール。

3)型にはまった行動を取らされる。

この三点が、子供達から判断力を奪う。簡単にいえば、脳みそを疲れさせ、冷静な批判能力を奪うのだ。

俺は、かつて、競馬場で天皇杯を見た時、ある既視感を覚えた。「あ、これ運動会だ」競馬場の大歓声、野次と、運動会の大音量の音楽、野次がそっくりに思えた。競走馬の代わりに、走るのが子供だ。走りたい子供だけ走ればいいと思う。少なくとも、俺は、一二回参加したら、運動会なんて、もういいや、と思ってしまった口だ。

子供達は、見世物にさせられる。踊り。組体操。

踊りとは、本来、感情を身体的に発露する行為だ。逆に言えば、こういう風に踊りなさい、というのは、踊りじゃない。なぜならば、感情とは、それぞれ一人一人の人間が生み出すものであり、一人一人の人間を超えて、全体主義的に、「こういう感情を持て」「こう言う感情を表現するための踊りを踊れ」と命じられるものではないからだ。

 

・入社試験

入社試験にしろ入学試験にしろ、志の高すぎる人間は落とされる。燕雀、鴻鵠の志を知らんや。俺は、いつだったか、とあるホテルに、「ホテルそのものには、興味はまるでないが、世界を平和にするためには、様々な人に触れ合う機会が必要だと存じます。ホテルなら、それができるかもしれないので入社を希望します」という主旨のエントリーシートを送ったことがあるが、弾かれた。ただ、俺以上の志を持って、そのホテルの転職試験に出願した人間は、たぶん、いなかったのではないか、と思う。まあ、俺が採用者でも、落とすけど。だって、そんな志高いやつ、ホテルよりもっと他の仕事したほうがいいから。

何はともあれ、世にある、入社試験、入学試験に受かるコツは志を落とすことだ。けど、そんな試験社会的に意味あんのかなあ、と思ったりする。違う、そういう試験に受かったやつばかりを必要とする職業だの学校だのに、価値はあるのかな、と思う。

 

批判とは、大雑把に言えば、「みんなとは違う視点を作り出すこと」、だと思う。ここでいう、みんなってのは、まあ、常識的見方、とか、これまでの見方とか、親や周りの大人から与えられた見方とか、まあ、そういうのだ。

つまり、批判とは、「異なった見方を当意即妙に作り出すこと」だと思う。

だとすると、批判とは、争いをなくす。

争いとは、同じルールに則って、同じ価値尺度で物事を競うことだろう。批判とは、これまでにない物の見方を生み出すわけだから、すでにあるルールに拘泥するわけがないのだ。

批判精神によってこれまでに類を見ない価値観が湯水のように溢れだせば、この世界から争いなんて、戦争なんて、なくなる。